2009年5月16日土曜日

本日からオープン!

前回のブログで「では〈森〉のイメージがどこからきたか、それは次号に」と宣言しておきながら、そのまま展示作業に突入し、前言果たせぬまま本日オープン。

ネタばれしない程度に、展示作業風景をすこし。

















ギャラリー正面の両脇に、ふしぎな壁を造作中。






















ウィンドウのなかを設置中の、オーギさんたち。これも不思議な光景。






















不思議さでは本展ナンバーワン。これ、なんでしょう?


こんなかんじ(?)の不思議満載の会場で、みなさんのお越しをお待ちしております。

おっと、そうでしか、終わる前に「なぜ〈森〉か?」ですね。

これについては、会場入り口に不思議なあいさつ文のようなものを
掲示しておりますので、過去のブログ記事と若干の重複はありますが、
その文章を以下にに掲載させていただきます。

しかし、なぜあいさつ文が不思議か?

画面をスクロールしてもられば一目瞭然。
ざっと4000字ほどもあるのです。。。


**
「きもちいい」を超えてオーギカナエの〈森〉が現れる、
その瞬間に立ち会うために


若しくは太古の昔に、この今の生物系とは、全く違う流れがあったのかも知れない。何らかの精神活動を含んだ、今では全く考えもつかないような、生殖システム。そういうものがなかったなんて、誰がいえる? ― 梨木香歩『沼地のある森を抜けて』2005年


 明日には無事オープンを迎えることができそうな、そんなタイミングで、この「ごあいさつ」とするには長すぎる(ことになるだろう)文章を書きはじめている。かたちだけはできあがった会場がじっさいに鑑賞者を迎え、画竜点睛よろしく「展覧会」として動きだすまえに、この〈森〉がどうやって生まれたのかをすこし書いておきたくなったのだ。ここはたしかに、人の気持ちををなにかに駆り立て、どこかへ連れて行く力 ―〈森〉らしくそれを「気」と呼んでみようか― に満ちている。

 はじまりはオーギさんからのEメールだった。「ちょっとやっかいなお願いごとがあるので、会ったときに相談させてください」とか、そんなかんじだったように覚えている。いったい全体なにごとかと会ってみれば、「わたしの個展のキュレーションをお願いしたいんです」とのこと。
 なんだ、「お金を貸してください」じゃなくってよかったよ、と安堵する反面(と言うのは冗談にしても)、アーティスト歴すでにウン十年(?)、百戦錬磨のオーギさんが個展をするのになぜキュレーションを他人に頼まなければならないのか、といぶかったのも正直なところ。聞くと、個展会場となるギャラリーアートリエでは今年から外部キュレーター制度をとっているのがひとつの理由。さらには、なによりオーギさんが「自分ひとりでは思いつきもしないことを、誰かと一緒にやることで実現できるところがおもしろい」と言ってくれるので、寝耳に水も渡りに舟。では、おもしろいことをやりましょう、とそくざに握手。「topping of life」展プロジェクトがスタートする。

 もっとも、プロジェクト名がじっさいに決まるのはそれからすこし後のこと。キュレーションなどと言ってもわたしにできるのはコンセプトをいっしょに練り、イメージを共有するくらいのことだから、オーギさんとまずはじっくり話すことにした。幸い、オーギさんとは半年前にひとつの仕事をいっしょにやりとげた仲。コミュニケーションはスムースにいく。しかし存外、知らないこともたくさんある。だから人はおもしろい。
 意表をついたのは、「すべてはよく生きるために」という言葉がオーギさんの口から出てきたとき。本当にさらっと、その言葉は流れてきた。絵を描いたりインスタレーションをつくったり、アーキテクトや空間の設計にかかわったり、ワークショップを行ったりと、オーギさんのアーティストとしての活動は幅広いが、そのどれもがオーギさんにとっては「よく生きる」ための術であり、また、自身の活動に触れた人たちがすこしでも前向きな気持ちになって歩みを進めてくれることを願っている。アーティストとして人の生にどのようにかかわることができるのか、そのことをとても大切に考えている。
 アートのまえに、まず生活がある。これは当然のことと言えば当然のこと。そもそもオーギさんは二人の子どものお母さんである。中学生でありながら人生の酸いも甘いも嗅ぎ分けたかのようなしっかり者のお姉ちゃんと、奔放でやんちゃくれの小学生の男の子に、パートナーは同じくアーティストの牛嶋均さん。久留米市田主丸に完成したばかりの一風変わった新居には、ご近所の人たちが連日お祝いに来てくれる。毎日が戦場(というのはいい例えではないが、まさしく!)のような忙しさだろう。そんな環境のなかでも(なかだから?)、やっぱりアートをつくりたい、気づけばアートをつくってしまう。アーティストとして強い信念と確信を持ちつつ、生活者として大らかに笑って暮らしていくという合わせ技は、涙なくして獲得できるものではない。

 「もともとあるものに、なにかをトッピングするのが好きなんでしょうね」。オーギさんはそう言う。ピザのトッピングに、ケーキのトッピング。chocochip sistersと名乗ってオーギさんが行ってきた、チョコレートを使ったワークショップもすぐに連想される。あるいは、アートという人生のトッピング。「アートは人生そのものではないけれど、人生をちょっと豊かにし、あるいはガラリと変えることもありえる、人生のトッピングのようなものである」。そんなふうに考えてみてはどうだろう。art = topping of life > life。プロジェクト名が決まる。
 「トッピング」という言葉には、ワクワク感を盛りあげるそのヴィジュアルイメージとは裏腹に、表面的な取り繕いとか取るに足りないお飾りとか、どちらかといえば否定的なイメージもつきまとう。だから、あえてそこに、物事の「本質」を云々する男性的、求心的思考をかるくかわし、たとえば皮膚という「表面」をとおして外界とのライブなコミュニケーションをはかろうとする女性的、生理的感覚への信頼を込めたりもしている。などと説明してしまえば、この発想じたいがすでに筋骨隆々な男性的フレームに支配されているような気もするが、オーギさんならきっとチョコレートという「本質」を覆してくれるようなチャーミングにして革命的なトッピングもそのうち考案してくれるにちがいない、と夢想したりもしている。

 〈森〉のイメージは、次にやってきた。

 「ギャラリー空間の白い壁と角(かど)が落ち着かないんです」とオーギさんが言いだす。ならば、壁一面に絵を描いて、角を丸くしよう、とふたりで盛りあがる。そう書けば、なんとなく安直な学園祭ノリにも聞こえるが、要は、アートのために設えられた特殊な空間に「作品」と呼ばれるもの(絵画やオブジェなど)を展示するのではなく、展示室の表面を覆うことで、そこをアートと生とが結節する有機的な空間へと変貌させ、空間(あるいは空気感、「気」)そのものを作品化しようという大胆な試み(のつもり)である。スケッチや模型制作をともないながら打ち合わせを重ね、壁と角をオーギさんの手で覆い尽くすというコンセプトが〈森〉へと跳躍を果たすのも、そう時間のかかることではなかった。
 じつはオーギさんには目論見があった。そのルーツは大学生時代にまでさかのぼる。東京で美大に通っていたオーギさんはもっぱら絵画を描いていたのだそうだが、あるとき先生からこんなふうに言われたという。「大きい絵を描きなさい。そうすれば、もはや〈かわいい〉とか〈きもちいい〉とか、そんなものではなくなるから」。そういう形容詞で括られることの多かった自らの作風を転換させたかったのだろう。しかし、そのアドヴァイスを受けた結果、大きなカンヴァスに絵を描くのではなく、どうせ大きくするならと建物の壁に絵を描きだしたというのが、さすがはトッピングの革命児(?)、オーギさんである。
 とはいえ、オーギさんの作品はいまもなお〈かわいい〉、〈きもちいい〉と評されることが多い。生来の志向もあり、人柄もある。オーギさん自身、それを否定するつもりはない。〈不気味さ〉とか〈居心地の悪さ〉を直裁的に表現しようともしない。ただ、オーギさんには確たるアート観がある。アートは、生や生活から切り離された無菌室で純粋培養されるべきものではなく、生きることの悲喜こもごもたる混沌のなかからしぼり出されるものだ、と。生の多様なあり方を懐深く肯定し、生の新たなあり方を創造する、そのためのアート。だからこそ人の気持ちを自由にし、希望を与え、だからこそ社会にとって必要なものとなる。

 オーギさんが今回目指したのは、かわいさのなかにひそむ不気味さ、気持ちよさとともにある居心地の悪さ、と言えるだろうか。この陳腐な表現に代わる言葉をわたしが持たないので致し方ないが、そのような感覚をじっさいに身体に及ぼすことができれば、それは誰にとってもかけがえのないものとなる。あるいはそれこそを「美」と言うのかもしれない。そんなオーギさんの想いが森のイメージと重なったのは、うなずけるところだ。

 オーギさんとの打ち合わせを重ねながら、わたしが手にしていた小説は、偶然にも(と言うべきだろうか)生命あふれる森を描いていた。オーギさんの〈森〉とオーヴァーラップするように、その森では濃厚な緑が気息を吐き、水(沼)が溜り、命が渦巻く。時空間がねじれ、いまが過去にワープして、未来へと放たれる。小説は最後、主人公が森を抜け、美しい終わりを迎えている。

鬱蒼とした森のその上から、午前中の新しい陽の光が射してきて、気まぐれな道標のように、そこかしこに明るい光の跡を残しては消えていく。そのたびにそこの複雑な植物相が一瞬鮮明になる。ときには藪の中をくぐりながら、ときには手を繋ぎ、私たちは案内人のない森の中を黙々と歩いた。 ― 梨木香歩(前掲書)

 さて、オーギカナエさんの〈森〉に足を踏みいれた人たちは、ここをどのように通り抜け、どのように帰っていくのだろうか。楽しみでならない。


 最後になりましたが、商業施設のなかに〈森〉をつくるというこのプロジェクトを実現に導いてくださった(財)福岡市文化芸術振興財団に深く感謝の意を表します。また、ことの始まりからあたたかく見守ってくださったMCPの宮本初音さん、勝手の分からない現場での作業をみごとに采配くださった徳永昭夫さん、わたしたちの要望にきめ細やかに対応くださった財団担当の小宮芙美さん、オーギさんの無謀な(?)展示リクエストに応えてくださった田村工務店ほか、さまざまにご協力ださった方々にも心よりお礼申し上げます。


                  「topping of life」展プロジェクト 代表  竹口浩司(企画担当)

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