2009年5月28日木曜日

森をめぐる二つの小説

こんにちはオーギです。展覧会もはや10日以上が過ぎました。

今回は森を制作している時に思い出した小説のことを書きたいと思います。作品初期段階でのイメージでは人工物だらけのBFに緑や水と光、気持ちのいい空気と空間が欲しいとおもっていました。それはそうなのですが、タケグチ氏と話を進め、模型などで展覧会イメージをつくっていくうちに、ただ健康的な「森林浴とかハイキング」のようなライトなイメージだけではない、人間社会の常識などとは無縁の暴力的なまでの生命の力を内包した森というイメージが沸々とわいて来たのでした。それで私が思い出したのは、数年前に読んだ小説「トムゴードンに恋した少女」<スティーブンキング著>なのです。ストーリーはハイキングをしていた女の子がちょっとおトイレに行きたくなってみんなとほんの少し(本当にほんの少し!)道のずれたところに行ってしまったことにより、広大な深い森のなかで迷ってしまうというコワーイお話なのです。森に迷い込んだ少女につきまとう大きな黒い影、視線。物語はただの恐怖話にはとどまりません。

そういえば昔、トルコのカッパドキアという奇岩群のある村を訪れた事があります。まるで巨大な岩石の森でした。キリスト教徒が修行の場としてその柔らかい岩石を手彫りで部屋のようにくりぬき住んでいたため今も数多くの宗教画が特別保存される訳でもなく風化してその乾いた土地に点々と見受けられます。少し高台に登ってみると奇岩の森に道のようなものがすうっと伸びるように向こうの方まで見えたので夕暮れの散歩をしようかという気になりました。てくてくあるいてその道をしばらく行くと何となくあると思われた道は途中で消滅しているのです。進行方向には奇岩の森、後ろを振り向いてもよく似た奇岩の森。そして左右も。一瞬パニックになりました。幸いたいした距離を歩いていなかったので戻る事が出来たのですが。人はこんな風にしてさりげなく迷ってしまうのかもしれませんね。

さて、時を同じくしてこの展覧会に関わった方が2人、もうひとつの小説を読んでいました。それはタケグチ氏が展覧会ご挨拶文でも引用している「沼地のある森を抜けて」<梨木香歩著>です。

とても素敵な不思議なような美しい物語です。読んでみてびっくり。面白いほどに展覧会のコンセプトのあれやこれやと符号点があります。私が南方熊楠についての本をよみつつ粘菌の絵を描いていた時にお二人がそのような世界を描いた小説を読んでいるなんて不思議です。

この二つの小説で私が気に入っている共通点があります。

それは、壮大な考え、宇宙的とも言える神様が居るようなそんな物語を取り上げながらも必ずそれは私たちの足元、生活の場に帰着しているところです。私もそんな風に作品がつくれたらなとよく思います。

長くなりましたが、次回は音楽についてかいてみたいなとおもっています。音楽って小説よりもより時代性が出るような気がしますが。ではまた。

 

2009年5月19日火曜日

ようこそ〜/不思議生物の名前は?

オーギカナエです。

展覧会も3日が過ぎました。来ていただいた方々本当にありがとうございます。そしてまだ見ていない方々ちょこっと森にあそびにきてくださいね。

展覧会への運びについては本展キュレーターの竹口さんから見事ないきさつが説明されていますので省くとしても、今回の個展は「個展」であって「個展」でないようなプロジェクトチームの力の結集のような物がありまして、特にキュレーターとのコミュニケーションの取り方は面白く自分一人だったらもうちょっと違う方向へ行っていたかもと思います。<森の中で遭難してしまうとか。或いは森の中に入れないとか。。?>(笑)

ある時はカレーを食べながら、またある時はくるめラーメンをすすりながら作家のとりとめのない話や思いを丁寧に聞き、まとめちょっとした言葉も逃さず展覧会づくりに生かそうとするないそんな竹口さんなのでした。

もともと海の側で生まれた私は山より海が好きで物のカタチがわからなくなるくらいの明るい光でホワイトアウトするようなカラッとしたそんな世界が好きです。でも今回は影が共存するような木漏れ日の世界。暗く鬱蒼とした熱帯雨林や深い森にはなにかが潜んでいてそこにはむき出しのなまなましい獰猛な野生がいる。そんな森を考えてみたくなったのです。何か私たちの中に流れている原生林的な物(それは確かにあるはず)が共鳴するように作品をつくりたかった。どこまで深く森の中に潜れたかわかりませんが、まだまだこのテーマでつくる物はあるような気がします。

会場のなかにいる白い不思議な生物達。見る人たちによっていろいろと見え方も違うようです。名前もちらほらあるようですが。。。ここで名前を勝手に大募集!(いいですかね?たけぐちさん)何かナイスなネーミング思いついた方は投稿してくださいね!!

さて7月20日まであるこの展覧会。長丁場ですがいろいろ思いついた事はやっていきたいとおもっています。

とりあえずイベントは6月20日のワークショップtopping on tenuguiをします。

かっこいいオリジナル手ぬぐいをつくりませんか?どうぞよろしく。

次回は森を考えるにあたって沸き起こって来た音楽や小説などについてお話ししたいと思います。

ではでは




2009年5月16日土曜日

本日からオープン!

前回のブログで「では〈森〉のイメージがどこからきたか、それは次号に」と宣言しておきながら、そのまま展示作業に突入し、前言果たせぬまま本日オープン。

ネタばれしない程度に、展示作業風景をすこし。

















ギャラリー正面の両脇に、ふしぎな壁を造作中。






















ウィンドウのなかを設置中の、オーギさんたち。これも不思議な光景。






















不思議さでは本展ナンバーワン。これ、なんでしょう?


こんなかんじ(?)の不思議満載の会場で、みなさんのお越しをお待ちしております。

おっと、そうでしか、終わる前に「なぜ〈森〉か?」ですね。

これについては、会場入り口に不思議なあいさつ文のようなものを
掲示しておりますので、過去のブログ記事と若干の重複はありますが、
その文章を以下にに掲載させていただきます。

しかし、なぜあいさつ文が不思議か?

画面をスクロールしてもられば一目瞭然。
ざっと4000字ほどもあるのです。。。


**
「きもちいい」を超えてオーギカナエの〈森〉が現れる、
その瞬間に立ち会うために


若しくは太古の昔に、この今の生物系とは、全く違う流れがあったのかも知れない。何らかの精神活動を含んだ、今では全く考えもつかないような、生殖システム。そういうものがなかったなんて、誰がいえる? ― 梨木香歩『沼地のある森を抜けて』2005年


 明日には無事オープンを迎えることができそうな、そんなタイミングで、この「ごあいさつ」とするには長すぎる(ことになるだろう)文章を書きはじめている。かたちだけはできあがった会場がじっさいに鑑賞者を迎え、画竜点睛よろしく「展覧会」として動きだすまえに、この〈森〉がどうやって生まれたのかをすこし書いておきたくなったのだ。ここはたしかに、人の気持ちををなにかに駆り立て、どこかへ連れて行く力 ―〈森〉らしくそれを「気」と呼んでみようか― に満ちている。

 はじまりはオーギさんからのEメールだった。「ちょっとやっかいなお願いごとがあるので、会ったときに相談させてください」とか、そんなかんじだったように覚えている。いったい全体なにごとかと会ってみれば、「わたしの個展のキュレーションをお願いしたいんです」とのこと。
 なんだ、「お金を貸してください」じゃなくってよかったよ、と安堵する反面(と言うのは冗談にしても)、アーティスト歴すでにウン十年(?)、百戦錬磨のオーギさんが個展をするのになぜキュレーションを他人に頼まなければならないのか、といぶかったのも正直なところ。聞くと、個展会場となるギャラリーアートリエでは今年から外部キュレーター制度をとっているのがひとつの理由。さらには、なによりオーギさんが「自分ひとりでは思いつきもしないことを、誰かと一緒にやることで実現できるところがおもしろい」と言ってくれるので、寝耳に水も渡りに舟。では、おもしろいことをやりましょう、とそくざに握手。「topping of life」展プロジェクトがスタートする。

 もっとも、プロジェクト名がじっさいに決まるのはそれからすこし後のこと。キュレーションなどと言ってもわたしにできるのはコンセプトをいっしょに練り、イメージを共有するくらいのことだから、オーギさんとまずはじっくり話すことにした。幸い、オーギさんとは半年前にひとつの仕事をいっしょにやりとげた仲。コミュニケーションはスムースにいく。しかし存外、知らないこともたくさんある。だから人はおもしろい。
 意表をついたのは、「すべてはよく生きるために」という言葉がオーギさんの口から出てきたとき。本当にさらっと、その言葉は流れてきた。絵を描いたりインスタレーションをつくったり、アーキテクトや空間の設計にかかわったり、ワークショップを行ったりと、オーギさんのアーティストとしての活動は幅広いが、そのどれもがオーギさんにとっては「よく生きる」ための術であり、また、自身の活動に触れた人たちがすこしでも前向きな気持ちになって歩みを進めてくれることを願っている。アーティストとして人の生にどのようにかかわることができるのか、そのことをとても大切に考えている。
 アートのまえに、まず生活がある。これは当然のことと言えば当然のこと。そもそもオーギさんは二人の子どものお母さんである。中学生でありながら人生の酸いも甘いも嗅ぎ分けたかのようなしっかり者のお姉ちゃんと、奔放でやんちゃくれの小学生の男の子に、パートナーは同じくアーティストの牛嶋均さん。久留米市田主丸に完成したばかりの一風変わった新居には、ご近所の人たちが連日お祝いに来てくれる。毎日が戦場(というのはいい例えではないが、まさしく!)のような忙しさだろう。そんな環境のなかでも(なかだから?)、やっぱりアートをつくりたい、気づけばアートをつくってしまう。アーティストとして強い信念と確信を持ちつつ、生活者として大らかに笑って暮らしていくという合わせ技は、涙なくして獲得できるものではない。

 「もともとあるものに、なにかをトッピングするのが好きなんでしょうね」。オーギさんはそう言う。ピザのトッピングに、ケーキのトッピング。chocochip sistersと名乗ってオーギさんが行ってきた、チョコレートを使ったワークショップもすぐに連想される。あるいは、アートという人生のトッピング。「アートは人生そのものではないけれど、人生をちょっと豊かにし、あるいはガラリと変えることもありえる、人生のトッピングのようなものである」。そんなふうに考えてみてはどうだろう。art = topping of life > life。プロジェクト名が決まる。
 「トッピング」という言葉には、ワクワク感を盛りあげるそのヴィジュアルイメージとは裏腹に、表面的な取り繕いとか取るに足りないお飾りとか、どちらかといえば否定的なイメージもつきまとう。だから、あえてそこに、物事の「本質」を云々する男性的、求心的思考をかるくかわし、たとえば皮膚という「表面」をとおして外界とのライブなコミュニケーションをはかろうとする女性的、生理的感覚への信頼を込めたりもしている。などと説明してしまえば、この発想じたいがすでに筋骨隆々な男性的フレームに支配されているような気もするが、オーギさんならきっとチョコレートという「本質」を覆してくれるようなチャーミングにして革命的なトッピングもそのうち考案してくれるにちがいない、と夢想したりもしている。

 〈森〉のイメージは、次にやってきた。

 「ギャラリー空間の白い壁と角(かど)が落ち着かないんです」とオーギさんが言いだす。ならば、壁一面に絵を描いて、角を丸くしよう、とふたりで盛りあがる。そう書けば、なんとなく安直な学園祭ノリにも聞こえるが、要は、アートのために設えられた特殊な空間に「作品」と呼ばれるもの(絵画やオブジェなど)を展示するのではなく、展示室の表面を覆うことで、そこをアートと生とが結節する有機的な空間へと変貌させ、空間(あるいは空気感、「気」)そのものを作品化しようという大胆な試み(のつもり)である。スケッチや模型制作をともないながら打ち合わせを重ね、壁と角をオーギさんの手で覆い尽くすというコンセプトが〈森〉へと跳躍を果たすのも、そう時間のかかることではなかった。
 じつはオーギさんには目論見があった。そのルーツは大学生時代にまでさかのぼる。東京で美大に通っていたオーギさんはもっぱら絵画を描いていたのだそうだが、あるとき先生からこんなふうに言われたという。「大きい絵を描きなさい。そうすれば、もはや〈かわいい〉とか〈きもちいい〉とか、そんなものではなくなるから」。そういう形容詞で括られることの多かった自らの作風を転換させたかったのだろう。しかし、そのアドヴァイスを受けた結果、大きなカンヴァスに絵を描くのではなく、どうせ大きくするならと建物の壁に絵を描きだしたというのが、さすがはトッピングの革命児(?)、オーギさんである。
 とはいえ、オーギさんの作品はいまもなお〈かわいい〉、〈きもちいい〉と評されることが多い。生来の志向もあり、人柄もある。オーギさん自身、それを否定するつもりはない。〈不気味さ〉とか〈居心地の悪さ〉を直裁的に表現しようともしない。ただ、オーギさんには確たるアート観がある。アートは、生や生活から切り離された無菌室で純粋培養されるべきものではなく、生きることの悲喜こもごもたる混沌のなかからしぼり出されるものだ、と。生の多様なあり方を懐深く肯定し、生の新たなあり方を創造する、そのためのアート。だからこそ人の気持ちを自由にし、希望を与え、だからこそ社会にとって必要なものとなる。

 オーギさんが今回目指したのは、かわいさのなかにひそむ不気味さ、気持ちよさとともにある居心地の悪さ、と言えるだろうか。この陳腐な表現に代わる言葉をわたしが持たないので致し方ないが、そのような感覚をじっさいに身体に及ぼすことができれば、それは誰にとってもかけがえのないものとなる。あるいはそれこそを「美」と言うのかもしれない。そんなオーギさんの想いが森のイメージと重なったのは、うなずけるところだ。

 オーギさんとの打ち合わせを重ねながら、わたしが手にしていた小説は、偶然にも(と言うべきだろうか)生命あふれる森を描いていた。オーギさんの〈森〉とオーヴァーラップするように、その森では濃厚な緑が気息を吐き、水(沼)が溜り、命が渦巻く。時空間がねじれ、いまが過去にワープして、未来へと放たれる。小説は最後、主人公が森を抜け、美しい終わりを迎えている。

鬱蒼とした森のその上から、午前中の新しい陽の光が射してきて、気まぐれな道標のように、そこかしこに明るい光の跡を残しては消えていく。そのたびにそこの複雑な植物相が一瞬鮮明になる。ときには藪の中をくぐりながら、ときには手を繋ぎ、私たちは案内人のない森の中を黙々と歩いた。 ― 梨木香歩(前掲書)

 さて、オーギカナエさんの〈森〉に足を踏みいれた人たちは、ここをどのように通り抜け、どのように帰っていくのだろうか。楽しみでならない。


 最後になりましたが、商業施設のなかに〈森〉をつくるというこのプロジェクトを実現に導いてくださった(財)福岡市文化芸術振興財団に深く感謝の意を表します。また、ことの始まりからあたたかく見守ってくださったMCPの宮本初音さん、勝手の分からない現場での作業をみごとに采配くださった徳永昭夫さん、わたしたちの要望にきめ細やかに対応くださった財団担当の小宮芙美さん、オーギさんの無謀な(?)展示リクエストに応えてくださった田村工務店ほか、さまざまにご協力ださった方々にも心よりお礼申し上げます。


                  「topping of life」展プロジェクト 代表  竹口浩司(企画担当)

2009年5月8日金曜日

topping of life??

今日は本展のタイトルについてお話ししたいと思います。

すでにご紹介した展覧会趣旨にあるように、topping of life というのはオーギさんのアート観を示すために私がつくった言葉です。「アートは人生そのものではないけれど、人生をちょっと豊かにし、あるいはガラリと変えることもありえる、人生のトッピングのようなもの」。これもオーギさん自身の言葉ではなく、オーギさんの話を私なりに抽出したものですが、要は、art=topping of life<life。

まずは生活、生きること、があります。アートの話をしていても「すべてはよく生きるために」「自分の作品を体験してくれた人が、ちょっとでも前向きな気持ちになってくれれば」、オーギさんの口からはそんな言葉がよく出てきます。当たり前のことかもしれまんが、オーギさんのアートを紹介するには、ここを伝えたい。そんなふうに考えました。

そもそもオーギさんは、二人の子ども(中学生でありながら人生の酸いも甘いもかぎ分けたかのような、しっかり者のお姉ちゃんと、どこまでも奔放でやんちゃくれの男の子)のお母さん。ご飯つくって、掃除洗濯して、学校の先生とお話しして、クラスのお母さんたちと情報交換して、ご近所付き合いも地域活動もむげにはできず、、、それでなくても、毎日、忙しいのです。なのに、やっぱりアートをつくりたい、気づけばアートをつくってしまう、というアーティストの悲しい(?)性。アーティストとして強い信念と確信を持ちつつ、生活者として笑顔で大らかに生きていく合わせ技は、涙なくして獲得できるものではないでしょう。

さらにひとつ。トッピングといえば、どちらかといえば表面的とか、たんなるお飾りとか、どちらかといえば消極的なイメージ。その言葉をあえて使ったのは、直接的にはオーギさんがチョコレートを使ったワークショップをよくされているので、そのチョコレートからの連想で。間接的には、私が最初に書いて、最終的にはボツにした次の展覧会紹介文から見てとってもらえるかもしれません。

たとえばここはアイスクリーム屋さん。「トッピングはいかがないさいますか?」と聞かれたら、あなたはどう答える派? ぼくはまちがいなく「いえ、けっこうです」と答える否定派。トッピングとかしたらアイスクリームの<本質>が分からなくなってしまうじゃないか、などと堅苦しいことを言ったりもする。では、オーギカナエさんはどうだろう。「えーと、じゃあ、アレとコレにしようかな」と、とたんにワクワクしはじめるんじゃないだろうか。そしてそのうち、アイスクリームの<本質>さえもひっくり返す画期的なトッピングを思いつくような、そんなアーティストである。

表層が本質をひっくり返す、トッピングが本体をガラリと変える。その面白みと可能性をオーギさんの「アート」は持っているような気がしているのです。

じゃあ、「森」は?? それはまた、次のお話で。

2009年5月1日金曜日

DM、まもなく


■DMデザイン=毛利清隆(Mohri Design)


展覧会を開催するためには、会場で紹介すべき「なにか」(作品であったり資料であったりワークショップであったり、心意気であったり?、それはさまざま)が必要なのはもちろんのこと、展覧会のイメージを広く伝えるメディアも必要となってきます。DMとかブログとか、テレビCMとか、ビラ配りとか街頭演説とか訪問宣伝とか、、、いや、そこまではやりませんが。

今回のオーギ展のDMを制作するにあたっては、過去の作品写真を掲載して「はい、DMでござい」というのはやめておこう、とオーギさんと話しました。今までの活動があって今回の個展へと至るのはまちがいないことですが、同時に、今回の個展はオーギさんにとっても新たな試み、せっかくなので新たなイメージをつくりたい!、となったのです。

そこで、デザイナーの毛利さんに声をかけて、「デザインという仕事でオーギ展にかかわってもらえませんか」とお願いしました。展覧会の趣旨やら展覧会イメージやらを長々とかわし、毛利さんなりの「森」のエッセンスを抽出、オーギさんから提供されたイメージの素材をもとに思いもかけないステキなDMデザインをつくってくれました。

この「思いがけなさ」こそ、コラボの醍醐味でもあります。オーギさんのイメージを共有、咀嚼したモーリさんの手からあらたなイメージが生まれ、そのイメージがまたオーギさんのイメージを膨らませるという循環も生まれるのです。

さて、このDMには展覧会につながるいろんなネタや思いもつまっています。しかし、それをここで解説するのは無粋というもの。まずは、まもなくみなさんの目にもふれるはずのDMを実際に手に取って、まじまじと見てみてください。そのあと会場に足を運んでいただければ、展覧会が2倍(以上も!)楽しめること、うけあいですから。